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絵本 Wanda Gag : SNIPPY AND SNAPPY
2019年11月23日
初期のアメリカ絵本時代を支えて来たイラストレーターのうちの一人として、ワンダ・ガアグさんは欠かせないですね。
wasn31rb
SNIPPY AND SNAPPY : Wanda Gag
著者 Wanda Gag
1931年
17cm×25cm 43p ¥7,800 + Tax
人間の家に入り込み、初めての経験をするネズミのスニッピ―とスナッピーを描いた作品です。
状態 : カバーなし、4角に少し擦れがあり、背表紙上下の紙が欠損しています。表紙も含め、中のぺージにも染みが目立ちます。刊期は1931年の記載がないのですが、飾りページなどがある事などから、初期版であると思われます。
ワンダ・ガ-グ(ガアグ)
( Wanda Hazel Gag )
1893年3月11日ミネソタ州のニューウルムで生まれ。幼少期もここで育つ。セイント・ポール・アート・スクールやミネアポリス・アート・スクール、アート・スチューデンツリーグ校などで学ぶ。1893年にミネソタ州のニューウルムで生まれる、ニューウルムはドイツ系、オーストリア系の移民達が作った街で、その当時はドイツ語での会話もしばしばだったようである。画家の仕事をしていた父の影響で、幼少の頃から、音楽なども好きな芸術家族であったようである。画家といっても、当時のミネソタの土地柄は都会といいがたく、とても余裕のある生活とはいえなかったようである。やがてワンダや弟、妹達が成長して、描く事に興味をもったときでも、父は絵の描き方を強制する訳でも無かったが、人の描いたもののコピーや、トレースをさせなかった。子供達の個性的な表現を大切にした上で、絵の基本をだんだんと浸透させていったようだ。やがてワンダが15歳のときに「パパにやり遂げられなかった事を、お前に頼んだよ」と言い残し父が他界するが、このときから、ワンダ自信が画家になる事を志したようだ。高校を卒業した後、しばらくは田舎の学校で教えていたが、セントポールの絵の学校や、ミネアポリス・アート・スクールなどに奨学金を受けて学ぶ事が出来た。1917年にニューヨーク・アート・ステュ-デンツ・リーグ校の奨学金が受けられる事が決まり、ボストン美術館関連の画商に絵が初めて売れたりなどと、順調に行くように見えた彼女にまたしても困難が降りかかる。家計を支えていた、母親が他界してしまうのであった。ワンダの事情を知っている人達は、幼い兄弟達を孤児院に預ける事を薦めたが、絶対に一家がバラバラになってしまう事を望まなかったワンダは、ニューウルムの家を売った資金で、ミネアポリスに移り、しばらくの間、6人の兄弟達が生活していけるようにした上で、ワンダ一人でニューヨークに移り住んだ。彼女は更に奨学金を貰えたのだが、生活の為に学ぶ事を諦め仕事に就かなくてはならなかった。いろいろな仕事を経た後、なんとか商業美術の仕事で生活していけるようになる。その当時、彼女が寄宿していた家庭に小さな二人の子供がいて、よくお話を聞かせてくれるようにせがまれた。そのときに、絵を添えて作った物語の中に、その後に世に出る事となる、[Millions of Cats(100まんびきのねこ)],[SNIPPY AND SNAPPY(スニッピ-とスナッピ-)] などが既に描かれていたようである。商業美術の仕事も何とか軌道に乗り始め、兄弟達への仕送りも増やせてはいったが、父の残した言葉を実現しなければならなかった彼女は、商業美術に見切りをつけて、コネチカット州の農家を借りて、夏の間ずっと絵を描いた。その作品をニューヨークに持ち帰ると、ウェイ・ギャラリーが大半を買い取ってくれた上に、彼女の最初の個展を開いてくれた。1926年に出された彼女の版画は、アメリカ・グラフィク・アーツ協会の年間最優秀版画の一つに選ばれた。翌年にも同タイトルを受賞している。初めて開いた個展が幸運にも成功した彼女はその資金でニュージャージー州に農家を買い、兄弟達を呼び戻して、画家の仕事に専念する。1928年にウェイ・ギャラリーで2回目の個展を開いたときに、Coward-McCann 社の社員に認められ、アメリカ人としては初めて、現在のアメリカ絵本スタイルを確立したような絵本である、[Millions of Cats]が出版された。また昔話や民話は残酷すぎるというアメリカ世論の声に、彼女はこう答えている。「私は昔話が大好きです。今の子供達が映画や新聞、ラジオなどで見たり聞いたりする殺人やギャングによる事件などと比べれば、昔話の残酷さなど、なんでもないものです。つまり、あまり写実しすぎないように、むしろおかしみのあるふざけた方法や無造作なやり方で扱うべきだと思います。どんな昔話でも、真面目にとるには少し滑稽すぎるような絵で、恐ろしくないものにする事が出来ます。」と彼女は語っている。彼女は活字の選定にも気を配っていて、活字よりも手書きの文字を使っているところは、彼女の絵と文字の調和が大切であると思ったからだ。妹のFlavia(フラビア)も絵本を出版しているが、1936年の[Sing A Song of Seasons] などは、ワンダの作品とよく似ている。ABC バニーにも見られるようにフラビアは、音楽の才能もあるようで、楽譜を絵本の中で描く事で音楽と絵をうまく調和させている。ワンダ自身は、1930年に[ランプのあかり]で、メアリー・S・コリアーズ賞を受賞、1943年にも同作品で、メトロポリタン美術館からも受賞している。1931年~1940年の間には、世界各地の展覧会に彼女の作品が出展された。そして彼女の作品のおおくは、アメリカとヨーロッパにある有名な美術館に永久展示されている。彼女はアメリカ絵本界以外にも数々の功績を残した後、1946年に他界している。
通信販売もお受けします。
お問い合せ&購入方法は、こちらをご覧ください>>
※掲載した記事や画像の無断使用や無断転載、転売等はご遠慮ください。
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wasn31rb
SNIPPY AND SNAPPY : Wanda Gag
著者 Wanda Gag
1931年
17cm×25cm 43p ¥7,800 + Tax
人間の家に入り込み、初めての経験をするネズミのスニッピ―とスナッピーを描いた作品です。
状態 : カバーなし、4角に少し擦れがあり、背表紙上下の紙が欠損しています。表紙も含め、中のぺージにも染みが目立ちます。刊期は1931年の記載がないのですが、飾りページなどがある事などから、初期版であると思われます。
ワンダ・ガ-グ(ガアグ)
( Wanda Hazel Gag )
1893年3月11日ミネソタ州のニューウルムで生まれ。幼少期もここで育つ。セイント・ポール・アート・スクールやミネアポリス・アート・スクール、アート・スチューデンツリーグ校などで学ぶ。1893年にミネソタ州のニューウルムで生まれる、ニューウルムはドイツ系、オーストリア系の移民達が作った街で、その当時はドイツ語での会話もしばしばだったようである。画家の仕事をしていた父の影響で、幼少の頃から、音楽なども好きな芸術家族であったようである。画家といっても、当時のミネソタの土地柄は都会といいがたく、とても余裕のある生活とはいえなかったようである。やがてワンダや弟、妹達が成長して、描く事に興味をもったときでも、父は絵の描き方を強制する訳でも無かったが、人の描いたもののコピーや、トレースをさせなかった。子供達の個性的な表現を大切にした上で、絵の基本をだんだんと浸透させていったようだ。やがてワンダが15歳のときに「パパにやり遂げられなかった事を、お前に頼んだよ」と言い残し父が他界するが、このときから、ワンダ自信が画家になる事を志したようだ。高校を卒業した後、しばらくは田舎の学校で教えていたが、セントポールの絵の学校や、ミネアポリス・アート・スクールなどに奨学金を受けて学ぶ事が出来た。1917年にニューヨーク・アート・ステュ-デンツ・リーグ校の奨学金が受けられる事が決まり、ボストン美術館関連の画商に絵が初めて売れたりなどと、順調に行くように見えた彼女にまたしても困難が降りかかる。家計を支えていた、母親が他界してしまうのであった。ワンダの事情を知っている人達は、幼い兄弟達を孤児院に預ける事を薦めたが、絶対に一家がバラバラになってしまう事を望まなかったワンダは、ニューウルムの家を売った資金で、ミネアポリスに移り、しばらくの間、6人の兄弟達が生活していけるようにした上で、ワンダ一人でニューヨークに移り住んだ。彼女は更に奨学金を貰えたのだが、生活の為に学ぶ事を諦め仕事に就かなくてはならなかった。いろいろな仕事を経た後、なんとか商業美術の仕事で生活していけるようになる。その当時、彼女が寄宿していた家庭に小さな二人の子供がいて、よくお話を聞かせてくれるようにせがまれた。そのときに、絵を添えて作った物語の中に、その後に世に出る事となる、[Millions of Cats(100まんびきのねこ)],[SNIPPY AND SNAPPY(スニッピ-とスナッピ-)] などが既に描かれていたようである。商業美術の仕事も何とか軌道に乗り始め、兄弟達への仕送りも増やせてはいったが、父の残した言葉を実現しなければならなかった彼女は、商業美術に見切りをつけて、コネチカット州の農家を借りて、夏の間ずっと絵を描いた。その作品をニューヨークに持ち帰ると、ウェイ・ギャラリーが大半を買い取ってくれた上に、彼女の最初の個展を開いてくれた。1926年に出された彼女の版画は、アメリカ・グラフィク・アーツ協会の年間最優秀版画の一つに選ばれた。翌年にも同タイトルを受賞している。初めて開いた個展が幸運にも成功した彼女はその資金でニュージャージー州に農家を買い、兄弟達を呼び戻して、画家の仕事に専念する。1928年にウェイ・ギャラリーで2回目の個展を開いたときに、Coward-McCann 社の社員に認められ、アメリカ人としては初めて、現在のアメリカ絵本スタイルを確立したような絵本である、[Millions of Cats]が出版された。また昔話や民話は残酷すぎるというアメリカ世論の声に、彼女はこう答えている。「私は昔話が大好きです。今の子供達が映画や新聞、ラジオなどで見たり聞いたりする殺人やギャングによる事件などと比べれば、昔話の残酷さなど、なんでもないものです。つまり、あまり写実しすぎないように、むしろおかしみのあるふざけた方法や無造作なやり方で扱うべきだと思います。どんな昔話でも、真面目にとるには少し滑稽すぎるような絵で、恐ろしくないものにする事が出来ます。」と彼女は語っている。彼女は活字の選定にも気を配っていて、活字よりも手書きの文字を使っているところは、彼女の絵と文字の調和が大切であると思ったからだ。妹のFlavia(フラビア)も絵本を出版しているが、1936年の[Sing A Song of Seasons] などは、ワンダの作品とよく似ている。ABC バニーにも見られるようにフラビアは、音楽の才能もあるようで、楽譜を絵本の中で描く事で音楽と絵をうまく調和させている。ワンダ自身は、1930年に[ランプのあかり]で、メアリー・S・コリアーズ賞を受賞、1943年にも同作品で、メトロポリタン美術館からも受賞している。1931年~1940年の間には、世界各地の展覧会に彼女の作品が出展された。そして彼女の作品のおおくは、アメリカとヨーロッパにある有名な美術館に永久展示されている。彼女はアメリカ絵本界以外にも数々の功績を残した後、1946年に他界している。
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